こんにちは。孤独担当大臣に任命された田中アハ太郎です

 孤独担当大臣、爆誕――

 そのニュースを聞いたとき、その任にふさわしく、そして耐えられる人間は日本列島広しといえど、この田中アハ太郎しかいまいと思った。俺ほど孤独を担当している人間もいない。親戚からいない人間扱いされてるし、温かみのある愛に触れたことないし、今も寒くて震えて凍えそうになりながらこのブログを書いているから。もうすぐ春なのに。雪、融けそうなのに(そもそも東京では片手で数えるほどでしか雪は降ってない)。

 しかし、孤独担当大臣って何をする仕事なんでしょうか? やっぱ孤独を担当するだけに愛を知らずに東京の街に一人取り残されることになるのか? 東京は一番孤独が似合う都市だからな。愛を知らずに成長した都市だから。俺もこの歳で本当の愛を知らないし。

 いやいや、田中さんヤバいっすよ、23歳にもなって「本当の愛」はヤバいっす。マジで孤独過ぎて人格的な成長がないってことじゃないですか。大人にならないとヤバいっすよ。みんな働いてますよ。遊んでられる年齢、超えてますよ。そろそろ社会的な責任とか生じてきますよ。今この世界で生きていることの責任とか、果たしましょうよ。

 うるさい!俺は孤独だし孤立なんだ!社会から隔絶された存在なんだ!

 この日本列島広しといえど現時点において孤独にして孤立している存在は俺と総理大臣と天皇しかいないからね。序列で言えば俺が三番目。権力者の孤独を俺は知っているのだ。孤独すぎて、昨日風呂場でちょっと泣いたもんな。風呂掃除してたら母親に怒鳴られたから。

 そうして深夜に風呂から上がって本当に静かな居間の中で一人でテレビを見ていたら、止めどなく涙が……溢れてはこなかった。そうすると死んだはずの祖父がいつの間にか俺の目の前に現れもう死んだはずの元横綱琴櫻の現役時代の相撲の取り口を見ながらこう言うのであった。

「相撲とは最も孤独な競技じゃ。土俵の上には自分と相手の力士しかいない。そして往々にして相撲というのはどれだけ長くても2分以内には決着がつく。時間と空間と関係性がその一瞬に凝縮されてほとんど裸の男同士がぶつかり合う。だからこそ相撲は神事となった。神の横に立つ男、つまり横綱もまた孤独でなければならないのだから……」

 じいちゃん、今相撲関係ねえよ……。

「いやいやアハ太郎、人は誰しも孤独なのだ。土俵に上がる男ならなおさらそうなのだ。だからこそ己を鍛えねばならん。それが人生なのだ。人として生きるということなのだ」

 そんな、じゃあ孤独担当大臣はみんなの心のなかにいるってこと?

「そうだ。本当の孤独はもっと大きなものなのだ」

 大きなものって何さ!

「喪失感じゃ。お前は年を取って落ち着いたのではない。無職になって人間らしい感情が欠落していっているのだ。お前は落ち着いたのではない。人生に主体的に取り組む動機が消えただけなのだ!」

 そ、そんな、じいちゃん、実の孫に厳しくね……? そういうキャラだったっけ?

「再び相撲を見よアハ太郎。力士はもう何かを失っているではないか! 具体的には衣服とか」

 本当だ! 男は何かを失うことで神事に参加する資格を得て、本当の孤独とは何かを知るのか!

「そうじゃ、だから女の話は長いのだ!」

 

 後日、田中アハ太郎は上記の女性蔑視発言が問題視され、孤独担当大臣を辞任した。こうして春が訪れて、大相撲三月場所では白鵬が復活優勝を果たし、日本列島は大いなる孤独に抗うようにアンチ白鵬で団結したのであった。

喫茶店になりたい

 この世の中で、例えば東証一部上場企業の社長の子供になったり、あるいはスーパーモデル並の容姿を持ち美を極めたり、野球や将棋など、なにか特別なものの才覚に恵まれたり、あるいは皇族になったりするよりも遥かに難しく、そしてそれさえあればもうすでに人生ゲームだとゴール地点にいてもうオールオッケーなものが一つだけ存在する。

 「実家が喫茶店である」

 そう、これこそが23歳になる誕生日を目前にした今、俺が思う人間がたどり着く唯一の正解なのである。

 実・家・が・喫・茶・店・で・あ・る。舌の先が口蓋を行ったり来たりしている間に下町の通りに面した行きつけの喫茶店でかつては乙女であったおばちゃんが卵を焼いたりしている。

 かつての日本人はトホカミエミタメという八種の言葉に深遠なる神秘性を感じ、一つでは遠神恵賜と、もう一つでは吐普加身依身多女と字を宛てて祝詞の言葉にしていたという。歴史的にはるか遠いところにいる人々を現代の文明レベルから蔑むことは現代人がしばしば犯す過ちの一つだが、ここで誤解を恐れずに言えば、なんとまあ気楽な心構えだと思わずにはいられない。「実家が喫茶店である」この言葉たちに比べれば、トホカミエミタメの持つ神秘性などはたかが知れている。

 一体「実家が喫茶店である」の何が俺をここまで惹きつけるのか? この問を俺自身に投げかけたところで上手い答えは帰って来ない。ある日いきなり「そうか、人生の答えとは、実家が喫茶店であるということだったんだ」と思いついただけに過ぎない。しかし、根拠なき思いつきこそ天啓なのである。根拠がある思いつきはただの論理的思考による帰着に過ぎず、天はそのすべてを飛躍した上に存在する。だからこそ古代の日本人はスメラミコトという字に天皇という字を宛てたのだ。

 しかしこの天啓は同時にある種の不可能性を提示する。「実家が喫茶店であることが人生の最適解である」と思いついた俺はもうすでに実家が喫茶店ではないのだから。実家が営む喫茶店を人が想起するとき、人はまた一つの限界に閉じ込められるのだ……。

 そんな、神よ、私を見捨てるのですか。

 いいや、そんなはずはない。神はちゃんと見ている。3歳の頃の俺が当時あった近所のダイエーのお菓子売り場でコアラのマーチが欲しくて泣き叫んで駄々をこねていたが、今思うとなんてちっぽけな祈りであることよと笑みを禁じ得ない。今俺は駅前のタクシープールのど真ん中でのたうちまわりながら神に祈りを捧げている。

 今、母を連れる小学生男児不二家から出てきて俺のことを笑いながら見つめている。君、大人の人をバカにしてはいけない。今君がチョコレートケーキ欲しさに泣いていたあまりにも弱すぎる祈りにしてみれば想像すらできないほどの祈りを、俺は今捧げている。亀の甲より年の功とは昔の人も上手いこと言ったと思うが、付け足すのを忘れていた。今の時代、チョコレートケーキより喫茶店なのである。

 しかし、俺はタクシーの運ちゃんたちに「邪魔だよ」と怒鳴られて無理やり引き剥がされている中で、一つの恐ろしいことを思いついた。

「もう実家は喫茶店にはなれない。だが、今の俺なら、この強靭な祈りを身に宿した今の俺ならば、喫茶店になることだって可能なはずだ。喫茶店の店主になるのではない。人の世は短い。だが喫茶店そのものであるとすれば、それは時を貫く一つの発生にほかならない……」

 

 カフェ・アハ太郎は東京23区東部の下町エリアで密かに人気を集める名物喫茶店だ。オーナーは田中アハ子さん78歳。その年齢から受ける印象とは真逆の若々しさでこの喫茶店を一人で切り盛りしている。

 コーヒーが一杯300円(税込)。個人喫茶店ではあまりにも格安なコーヒーからは想像できない芳しさと豆本来の味も、アハ子さん特製の一品だ。カフェ・アハ太郎に集う人々は、座ったら二度と起き上がれそうにもないほどの心地の椅子に腰掛けながら、アハ子さんと共に軽妙なトークとコーヒーを楽しんでいる。

 しかし、何よりもこの店で有名なのがエビピラフ(税込450円)。この味のクオリティーははっきりと言って喫茶店のレベルを飛び抜けている。朝昼夕とお客さんの心と胃を掴んで離さない。小さな喫茶店なのにいつも席が埋まっている理由が分かる。

「喫茶店なのに目玉がコーヒーじゃないってのは複雑だけどねえ」

 アハ子さんが困ったように言うと、常連客たちがどっと笑う。アハ子さん流のジョークで、寒い冬の夕方も暖かくなる。

 帰り、勘定を済ませるとアハ子さんが「また来てくださいね」とにっこり笑う。お釣りの250円を受け取りながら、またカフェ・アハ太郎に来ることを考えない客はいないだろう。どんな目玉メニューが並んでいようと、このプライスレスなアハ子さんの笑顔こそ、最高の贈り物なのだから――

 

 ところで俺は今この文章をマックスコーヒーを飲みながら書いている。なんでかって? 普通のコーヒーは苦くて飲めないんだよ。

 

田中アハ太郎の痛風

 また痛風ネタかよ! すみません。でも、俺にはもう痛風しかないんですよ……。

 さりとて山田勝己ほど己を痛風の道に追い込んでいない俺だが、この一ヶ月間、皆様はいかがお過ごしですか? 俺は……お茶だけ暮らすというどう考えても常軌を逸しているプランを即座に捨てて、今は飲むヨーグルトやヤクルトを飲みながら生活していま~す。

 俺は喫煙者で、タバコを吸うときはなにか飲み物がほしいタイプなのだが、お茶や緑茶だとなんか気持ち悪いし、アイスコーヒーとかは苦すぎて飲めない(じゃあなんでタバコ吸ってんだよ)ので、今は健康になるためにヨーグルトを飲みながらタバコを吸っています。

 この前医者に行って尿酸値を測ったら12.9だった。基準値はおおよそ7~8の間だったので、これが異常尿酸値だとよくわかりますよね。ほらあったじゃん、西武の中村剛也一人のホームラン数よりも千葉ロッテマリーンズのチーム本塁打数のほうが少なかったシーズン、おおよそあんな感じです。ところでおかわり君痛風とか大丈夫なのかな。

 みんながWithコロナとか言ってんのに俺だけWith痛風だからな、世界に対する俺の存在のしょうもなさがこういう形で露呈すると、帰り道小田急快速急行の中でほろりと涙が出てくる……。ところで小田急に乗ってると下北沢で降りる女が分かるようになりませんか? これ、いい暇つぶしなのでおすすめしておきます。

 できることなら俺の体もロックダウンしててほしいよな。必要な栄養だけ送られて俺はずっと寝ているの。これ、マジでみるみるうちに痩せていくと思うよ。菅総理、なんとかならないものなのでしょうか?

 なんとかならさそうだが、WithコロナなりWith痛風なり色々なWithをつなげていくと最終的にたどり着くのはWith実家で、俺は高卒だから前置詞なんて何一つわからないけど、そろそろ23歳になろうとしている男がWith実家状態なのはヤバいと思うよ。まさに、お茶だけで生活するというプランをあっさり捨てた俺の精神的かつ物理的な甘ちゃんっぷりが俺の心を実家に縛り付け……これと似たようなポエム、BLEACHの巻頭にありませんでしたか?

 こうして俺はボロボロで薄い布団の中へ潜り込み一日をやり過ごそうとしていると壁に貼り付けたポスターの中で微笑む涼宮ハルヒが目を見開いて俺のことを……そういえばハルヒの新刊が発売されていたんだった。アニメイトまで買いに行かないと!

 というわけで涼宮ハルヒシリーズの最新刊「涼宮ハルヒの直観」が発売された。前作驚愕からは9年半ぶりの続刊発売ということで世間が大いに湧いている……ようにはあまり見えないが、とにかくそれなりに盛り上がっている。大いに盛り上げるつもりの涼宮ハルヒは不満だろうけど。

 9年て。光陰矢の如しと言っても限度があるだろ。そりゃ俺も無職になるし痛風にもなるよ。しかも俺が痛風のときにも涼宮ハルヒは高校生のままなんだろ? 新刊読んだけど、続編出なさすぎて若干時空歪んでるじゃん。サザエさん時空っぽい感じになってんじゃん。

 動乱の秋葉原の、そしてその文化の中心地に涼宮ハルヒが立っていたことをイメージする。別に本当は涼宮ハルヒが中心だったかどうかなどということはどうでもよく、というか涼宮ハルヒと文化なんかどうでもよく、涼宮ハルヒという存在がたしかに俺の中にズドンと居座っていることは確かなのだということを確認すればよい。ハルヒはどこにも行ってない。9年の時間など、キョンのタイムトラベルに比べれば……。

 いや、9年は長すぎるだろ。俺、無職になっちゃってんじゃん。大学受験失敗してんじゃん。驚愕のときは中学生だったんだぞ。おい、ハルヒ!!!!!! 俺の人生の責任を取れ!!!!!!!

 しかし、人生の責任などというものがハルヒに関係あるわけもなく、というか全世界の人類などハルヒにしてみればそのほとんどが関係もなく、どうでもよい存在なので、とりあえず俺は精神科医にこの9年間のことを話すしかないのだった。

 そう、まず――

 宇宙人と未来人と超能力者について話してやろうと思ったけど、普通にそんなこと忘れて「あ、いつもどおりっす……」って答えるしかなかった。やっぱ責任取れよ!

風が吹けば整形外科医が儲かる

 月に一度は更新するぞというこのブログももう二ヶ月近く更新していないが、一応は日記という体裁でやっているのだからこの二ヶ月間の記憶が俺に存在しないのかというとそういうことではなく、むしろ一生涯消えることのないだろう記憶の苦しみによってなかなかブログの記事が書けずにいたのであった。

 しかし、秋ですね。十月に入るとグッと寒くなり、人々の装いも変わり、我が家も羽毛布団なんか出したり、我が愛すべき東京23区東部の下町地域ではこのような会話が時候の挨拶として繰り返されることになる。

「おばあちゃん、寒いですねえ」

「へえ?」

「おばあちゃん、寒いですねえ!」

「ええ、朝はもう食べましたよ」

「おばあちゃん! 寒いですねえ!」

「へえ、おかげさまで元気でやっとります」

 道端で繰り広げられるこのような微笑ましい会話を寝転がりながら聞いていると、そもそも時間感覚がどうでもよくなり、お前は相変わらずそうやって部屋の中で寝転がりながら人々の暮らしを眺め続けて人生のイベントに能動的に参加することは一度もないよな、ともうひとりの俺が俺に痛烈な人格批判をぶちかましてくるが、俺が言いたいことはそういうことではなくて、純粋に足が痛くて動けないから布団の上にいるだけである。

 このとき、体重100キログラムをゆうに超える俺の全体重を支えてきた足腰、関節がついに限界を叫び始めているのだな、と解釈していた。今考えるとあまりに楽観的な解釈である。基本的に俺は人生を楽観しながら乗り越えてきた。いや、今は無職だから乗り越えるどころか座礁している最中ですが。

 歩くどころか立ち上がるのも精一杯なので、家の中は基本的に赤ちゃんのようにハイハイで移動していた。赤ちゃんみたいな生活を送ってきた俺に対する神が与えし罰でしょうか? 母親が異常に俺のことを見下している気がする。この狭い家の中のトイレにたどり着くまでに十分以上も時間をかけないといけないのだ。

 その間、暗闇の中で

「フーッ……フーッ……」

 と苦悶に満ち溢れた声をあげながら大男が一人狭い部屋の中を歩いているのかもわからないスピードで移動している。

 改めて武道で鍛えた精神力が俺にあってよかったと思うね。武道で鍛えたのではなく、ニコニコ動画に上がっていたアニメ版「刃牙」の愚地独歩の勇姿に感銘を受けていただけだが。

 これまでも肉体を痛めることはあったが、ここまでの痛みは異常なので、整形外科に行くことにした。そもそも歩けないのだから整形外科にも行けないのだが、そこは色々な人との協力があって、なんとか辿り着くことができた。端的に言うとタクシー乗っただけです。人の縁(えにし)やね。

 しかし、明らかにおかしい痛みを抱えているのに医者にも行けない日々は地獄だった。痛みを解決することができないので普段かかっている心療内科も受診できず、久々に睡眠薬のストックが底をついた。ODしてないのに……。もう俺は誰も傷つけないと決めたのに……。

 俺の決意をあざ笑うかのように襲いかかる脚部の痛みと異常な腫れ! 骨折を覚悟していた俺は、整形外科の待合室の中でここまでの痛みだと今年いっぱいは痛みを忘れて生活することなどできないのだろう、そしてここまでの苦痛はきっと俺の人生観を変えてしまうだろうと覚悟した。

「田中さん」

「はい」

 いま俺は医者の前でパンパンに腫れ上がった左足をさらけ出している。横に控える看護婦達のいたたまれなさそうな視線。そういえば足の爪とか切っておいたほうが良かったかな? いま、患部のエコー画像のようなものを見せられている。日が西に沈み始めてブラインドの隙間から差し込んできている。そういえば、待合室ではミヤネ屋が流れていたっけ。痛みのあまり時間を忘れていた俺はここでようやく今が午後なんだと気づく。

「ここに空洞ありますよね?」

「はい」

「これ、水が溜まっているんです」

「えっ?」

 水が溜まっているってどういうことだ? ダムじゃあるまいし。プロジェクトX的なアレで実は重症だということを俺に伝えたいのか? 周りの看護婦たちが下を向く。医者の表情が逆光の中に隠れて見えない。

「わかりやすく言うと、痛風なんですよ」

「え?」

「お気持はわかります。でも、痛風なんです」

 俺の人生観、変わったね。形而上的な意味じゃなくて、純粋にこれからは健康的な生活を心がけなきゃいけないって意味で。その後溜まっていた水を抜いてもらったら一気に痛みが抜けていった。俺は泣きそうになった。これまでの俺の苦しみの愚かさと、わずか二ヶ月ほどで終わると思っていた俺のこれからの罰のあまりにも大きく遠い彼方を見ようとして泣いたね。涙出てたと思う。

 普段から酒を嗜まないのに俺が痛風にかかるのはおかしいだろ。じゃあ年がら年中酒飲んでる俺のフォロワーとかはどうなんだ。どうして俺だけ……。俺、この一杯でもうコーラ飲めなくなっちゃうの? CCレモンは? ファンタグレープは? マクドナルド、もう食えないの? おじいちゃん、もう会えないの? 友よさらば。神よ、なぜ俺だけが痛風なんかに……。エリ・エリ・レマ・痛風だよ。

 足の痛みはとれても心の痛みは消えることはない。人生において大事なことを俺は俺の不摂生な生活の壮絶なしっぺ返しで学んだ。みんな。自分の尿酸値だけは裏切らずに生きていこう。野菜を食べよう。酒は程々にしよう。炭酸ジュースは砂糖がふんだんに使われているからあまり飲まないようにしよう。そして運動をして、健康的に生きようね。

 だけどこうして天に向かって反省文を書いている今ここでもわずかに足に残った痛みが消えない。医者は痛風をかばって生活していたので別のところを痛めたのだろうと言った。俺は違うと思うね。

 人は四肢を失ってもその失った部位にあるはずもない痛みを感じるという。これを幻肢痛という。俺は今幻肢痛を感じ続けている。一体何を失ったのか? あのジャンクな日々をだよ。

 社会が俺を追い詰めていくが、俺は負けることはない。地獄の中を生き抜き、必ずもう一度マクドナルドのポテトを食うのだ。待っていろよ尿酸値、人間の本当の恐ろしさをお前に教えてやるぜ。

 

 

 

街歩きに耐えうる体力がない

 この国に生きるありとあらゆる生物がもう分かっているように今年の夏の暑さは全く異常で、去年新しくした我が家の冷房の温度をどれだけ下げても快適な室温が失われたままで、新しい生活様式の本当の意味は新型コロナウイルスについての話ではなくこの暑さについての話らしい。

 こんなに異常な暑さだと夏へのノスタルジーなどというものは一切発生する余地はない。だいたい女の子が一人でこの灼熱の夏に突っ立ってたら熱中症で死ぬで。白いワンピースと麦わら帽子に捏造された美しい記憶を重ねられたのは当時の日本が平和だったかららしいね。あの美しい時代は一体どこへ……。いや、俺産まれてないけどさ。

 しかしそんな灼熱の東京の街の中で歩みを進める男の影が一つ。何を隠そう俺である。母方/父方の両方の祖母から貰った小遣いをガッチリ財布の中へ入れて秋葉原に降り立ったのだ。正直、自分でもどうかと思うよ。お小遣いあげる立場なのはお前だろと言われても何も言い返せないよ。でも俺はいつまでも甘えていたい。この社会構造に可能な限りフリーライドし続けていたい。親戚の子供たちにお年玉あげたくない。というかそもそも親戚の集まりにもう呼ばれない。俺は歴史から抹消された男。

 東京は最早コンクリートジャングルではなくてただのジャングルである。山手線から降りてすぐに吹き付けてくる熱風。体にまとわりつく汗。まるで泳いでいるかのような湿気。「あのデブ平日から秋葉原かよ」という周囲からの視線。そういった全ての重荷を背負いながらゲーセンへと向かう。少し目に涙を浮かべながら。

 秋葉原駅からゲーセンへと続く道は距離にしてもう滅茶苦茶に短くて300mも離れていないと思うが、それだけでもこの夏の異常なものがわかった。「夏は暑いもんだろ」ってたまに言う奴がいるけど、そうじゃないんだよ。暑いもんは暑いんだよ。「暑いって言ってると余計暑くなるよ」って言う奴もいるけど、口に出す出さない関係なく何人にも容赦無く干渉する暑さなんだよ。夏の前に人はみな平等なんだよ。悪しき平等だけどな。

 夏への怒りを己のエネルギーに変えて音ゲーをプレイするが、そもそも暑さのせいで集中力を欠いていたのでスコアは大して伸びなかった。ゲーセンの中も暑いのはどういう理屈なんだよ。オタクのせいか? 夏場に秋葉原に集まる人のせいなのか? 人類の罪の果てしなさに想いを馳せながら、秋葉原の路地を歩く。これ以上金を無駄にしたくないから。

 秋葉原の道を占めるのはメイドの客引きと外国人観光客とオタクとビジネスマンである。ただコロナ禍によって観光客もビジネスマンもいないので、おおよそメイドしかいないということになる。1人のメイドを見たら300人のメイドがいると思えとは有名な言葉だが、この秋葉原の裏路地に所狭しと並ぶ300人のメイドの集団を見て俺は一体何人のメイド達を思い浮かべたらいいんだろう。デトロイトってゲームに多分こういうシーンあったよな。俺はあれをYoutubeのゲーム実況で見てたから詳しいんだ。

 しかし太陽は未だに照り続けている。俺たち日陰者の存在を許してくれない。囁かれる「暑いね〜」買っていたソルティライチが底を尽きてもう限界だと思って別のゲーセンに避難していた。そしてしっかり金を無駄にしていた。折角貰ったお小遣いが……。何の生産性もない遊びに繋がった日本銀行券のことを供養するために、意を決して灼熱の裏路地へ再び飛び込んだ。もう帰りたいし。

 気付けば陽はゆるやかに沈みはじめて心なしか道行く人たちの姿が多くなってきた。俺は結局1日と金を無駄にしてしまった……。日本は本土決戦をするべきでした。そのことを確かめるためにブックオフへと立ち寄った。めぼしい本はなかった。漫画コーナーで立ち読みしている人たちの間を通り抜けるために「すいません」と小声で言いながら本来謝るべきは通路を占領し続けるお前達の方だろという謎のイライラが積み重なっていくだけだった。募る敗北感と焦燥感。戦後の夏、ニッポンの夏、俺の夏。

 苦し紛れに書泉ブックタワー柳田國男遠野物語を買ってまた山手線の中へと逃げ込んだ。ラッシュアワーに巻き込まれていた。デブだし、汗でベトベトだし。ほんの数駅の間だけなのに堪え難かった。働きたくなくなった。人々の目に光はない。俺も多分そうだろう。夏よ、なぜ私をお見捨てになったのですか。山手線の中は無言で満ち溢れる。暑さが殺気に変わりつつある中、限界だと思って飛び出たホームが最寄駅だった。電車から吐き出された人々によってほとんど運ばれるようにしてエスカレーターから改札へと向かった。

 ようやく帰宅した時、俺はまた目に涙を浮かべていた。文明の風。冷房の風。その身に科学技術を浴びながら水道水をコップ一杯に入れて一気に飲み干した。熱中症になりかけていた。フラフラしていた。人生が? いや、世界が。

 シャワーで汗を流してコカコーラを飲み干した。テレビを点けると東京ヤクルトスワローズが負けていた。そうして、フラフラしているのは俺の方だったということに気付くのだった。

 

人として中2から何も成長していない!?

 俺は今、梅雨を飛び越えてもう雨季と呼んでも差し支えない天候の現代日本・東京に住んでいるが、なぜここまで梅雨が長引いているかというと去年俺が「天気の子」に否定的だったらしい。

 雨季だけにウキウキ! とは行かず家族から厳に外出禁止を言い伝えらている俺は特に何もせず部屋の中のソファの上で横たわりながら、テレビ番組を見ている。

「お前ただでさえ無職なのにコロナ持ち帰ったらどうなってんのか分かってんだろうな?」

 的な圧にビクビク震えながら、テレビ番組を見ています。

 お前、前回あんだけ真面目にコントロールが云々とか言っていたのに家族からの命令はすんなりと受け入れるのかといったご批判には真摯に向き合いたい。しかし反論させてください。家族の好意によって生き延びている俺が家族から反感を持たれたらもうそれは死を意味します。働けません。というか働きたくありません。反抗にも限度があります。終わりなき反抗もカッコいいですが、それやっている人は大体悲惨な死を迎えます。

 大事なのは折り合いなのさ……。本棚の上にぴょこりと置いてある星のカービィのぬいぐるみを丁寧に撫でる俺。降り続ける雨。めくられるカレンダー。道にまばらな通学帽とランドセル。サンデーモーニングのスポーツ御意見番で滅多にあっぱれを出さなくなったリモート出演の張本勲。謎の快進撃を見せる東京ヤクルトスワローズとそれとは対照的に謎の不振が続く山田哲人

 そう、本来なら東京オリンピックが開催され日本国民がスポーツに熱狂的になっているはずの2020年7月下旬は、諸般の事情によってオリンピックの開催そのものが2021年に延期され、また別の熱に浮かされているようで、俺がこのブログでCOVID-19に言及するのももう数え続けて幾星霜といった感じだ。

 さて、「日本のみなさん心してオリンピックの開催に備えましょうアンド開会式はちゃんと見てくださいね」的な意味で設けられたはずが「お前ら外に出るなよ」に意味合いが変わった4連休に俺が一体何をしていたのかというと……アニメ・アイドルマスター、通称アニマスの一挙放送を見ていた。

 アニマスももう9年前の作品だ。放送当時中学2年生だった俺はぼちぼち人並みに深夜アニメを見ていて、アニマスの高いクオリティに子供ながら驚いたものだが、それももう遠い記憶の彼方。流石に俺も大人になった。いい大人がアイドルアニメを見て心動かされることなど…………あった。

 気付けば俺の手はティッシュ箱に伸び、涙を拭っていた。というか当時見ていた時よりも泣いた気がする。当時の俺は星井美希というキャラクターに心奪われたものだが今見ると……律子、いいよな。俺律子みたいな人と結婚したい。実際付き合うと律子みたいな人が一番いいんだよ。俺童貞だけど。そんなの関係ないんだよ。

 雪歩もいいよな。ああいうエキセントリックな感じが、と書いたところで「どうせあんたは弱々しい女の子が好きなだけなんでしょ!?」ってもう一人の俺(都内中堅女子中高一貫校に通う高校2年生。バレーボール部の副キャプテン。ポジションはリベロ。気さくで誰とでも明るく接することが出来るが、その人当たりの良さのせいで頼まれた仕事はなんでもやってしまうことと親友らしい親友がいないことが悩み)に怒られたのでもうやめます。

 一番怖くなったアイドルは春香だった。何なんだよあのリアルな壊れ方は。9年前と受ける印象が全く違う。怖いよあの子は。というか誰か定期的にメンタルケアしてやれよ。明らかに「私ヤバいです」みたいなサインを出してただろ。異変に気がついてやれよ。人はおおよそゆるやかに壊れていき、その壊れ方は世界と似ています。これをセカイ系と言います。

 ちなみに一番泣いたところは「やった!」のシーン。これは9年前と同じで、人は成長するところもあるし、しないところもある。そのことをポジティブに教えてくれたのがアニマスだった。のかもしれない。

 

陸サーファーがやがて海へと至るとき

 少しだけ真面目な話をする。

 先々週の金曜日、つまり六月最後の金曜日だったかと思うが、その日の夜の十時頃に俺は地元の居酒屋で高校の同級生と酒を飲んでいた。

 その日は応援しているプロ野球チーム・東京ヤクルトスワローズの負け方があまりにも凄惨で腹立たしく、なにか外にでも出てこの気分を発散させないと気が済まなかった。普通、あそこでホームラン打たれるかね。

 どうやら突発的に始まったらしいこの会の終わりの方に参加した俺は、もう卒業式以来に見る同級生達の姿にちょっとだけ感動した。どうもみんな生きているらしい。そのことを確認しただけで参加した意義があったというものだ。

 その次の日も別のメンバーで飲み会があった。やはりみんな生きている。働いてもいる。チェーンの居酒屋の狂騒の中にいながらそのことだけを確認している。

 思えば遠くまで来たもんだ、いや特に何かを思いながら生活しているわけでもないが。高校を卒業して随分経つ。みんな変わるし、みんな遠くまで行っていることだろう。

 さて俺が来た遠いところとは? あまり変わっていないような気もするが、高校を卒業したときと比べれば今こういう精神状態でこういうブログを書いているということはかなり驚くべきことなんだろう。

 幼い頃から体力的な問題で長距離走が苦手であったが最近の俺の生活はもう堕落の長距離走を校庭千周くらいの距離で走り続けている。堕落への道はプレイステーションで舗装されています。

 なにかの手から逃れようとして生きてきたような気もする。一体何に? 大人になるにあたって果たすべき責任とか、将来とか、あるいは過去とか、そういった諸々が俺の人生の価値を正確に測るために調和を育むためにコントロールしに来ている──ような気がする。

 みんな働いていて、税金とか年金とかを払って、つらそうな仕事をこなしている。俺はそういった物事からずっと逃げ続けている。逃げることを自責するような心はもう無くなった。前から書いてきたように、流されるだけ、流れて生きていくだけ。でも、俺を流れに連れ去ってくれるような波は一体どこにあるのだろう?

 二日目の飲み会のときに席を離れて喫煙ブースで一人でタバコを吸っていると、同年代らしい女性二人が入ってきた。ま~肌の露出のが多くて俺はびっくりしたね。あんたらいくら夏でもその格好だと風邪引きますよと思ったが、もうそんなんは俺の親が抱えている借金よりも大きなお世話なんで黙っていたら、一人の女性がタバコをすべてブースの床に落とした。不運なことにブースの床はなぜか水で濡れているところがあって、彼女のタバコはほとんど駄目になってしまった。

 彼女たちは必死になって生き残っているタバコを一つずつ拾い上げていた(俺も手伝おうとしたけど、喫煙ブース自体があまりにも狭くて体を屈めることがかなり難しかった)。

「お兄さん、すみません」

「ああ、いや……」

 ああなんと哀れな無職。せっかくの会話チャンスだったのに……。しかし俺の会話チャンスよりも重要なことに俺は気付いた。居酒屋という空間を俺は好きになりつつあった。そこにいる人達の何人かは、何らかのコントロールから逃れて生きている気がするからだった。別に彼女達がそうであるというわけでもないが、なんの根拠もなく、直観としてそう思っただけだった。でも羽生善治だって「直観の九割は正しい」って言ってるしな。

 しかし世の中にはそういったものから逃げるような人間で構成されているわけではない。制御から逃れようとする人間もあれば、制御しようと目論む人間もいる。いや、厳密に言うと、制御という機構に憧れる人間が。

 七月五日に東京都知事選挙があった。その結果について思うことは何もない。そもそも俺は野球を観るのに忙しい。

 問題はその結果が出てから、俺のツイッターのタイムラインにちらちらと見え隠れするコントロールという機構に憧れる人たちのことだった。選挙や政治といったものが多分にそういう要素を含むだろうから仕方ないとはいえ、やれ戦い方がどうだとか、やれ教育がどうだとか、あんたら、思い上がりも甚だしいところちゃいますの、と言いたくもなる。

 まあ俺もそういう憧れを抱いたことはあるけど、もうそんなんからは縁を切ったつもりだ。馬鹿げている。

 俺は今までその憧れに対する忌避感を、エリートたちに対する俺のやっかみなんだ、と思って処理してきた。けど、もう今はわかる。これは単なるやっかみではない。俺の人生の生き方から生まれ出た誇りを持ったやっかみなのである。

 喫煙ブースから席に戻り、友人たちと会話しながら、ふと周りの人々を見回してみた。そして店から出て、公園で噴水を眺めているときにも人々を見た。ベッカムのユニホームを着ながらスケートボードの練習をしている兄ちゃんの姿を見た。二軒目に入ったときにも、その後カラオケに行ってフリータイム時間が終わって、雨に包まれている午前五時の道を駅に向かって駆けていく人々の姿を見た。

 高校を卒業してから俺の人生のうちの五年間は人々を見ていることに費やしていたような気がする。もう波は生まれていた。コントロールとは無縁のところから広がり続けている。人類が誕生してから、多分ずっとそうだ。

 もう波は俺をどこか遠いところに追いやっていた。そしてまた、俺を別の遠いところへ追いやっていくだろう。それでいい。出来る限り遠くへ。きっとまた、漂着しているところを見て驚くはずだ。