陸サーファーがやがて海へと至るとき

 少しだけ真面目な話をする。

 先々週の金曜日、つまり六月最後の金曜日だったかと思うが、その日の夜の十時頃に俺は地元の居酒屋で高校の同級生と酒を飲んでいた。

 その日は応援しているプロ野球チーム・東京ヤクルトスワローズの負け方があまりにも凄惨で腹立たしく、なにか外にでも出てこの気分を発散させないと気が済まなかった。普通、あそこでホームラン打たれるかね。

 どうやら突発的に始まったらしいこの会の終わりの方に参加した俺は、もう卒業式以来に見る同級生達の姿にちょっとだけ感動した。どうもみんな生きているらしい。そのことを確認しただけで参加した意義があったというものだ。

 その次の日も別のメンバーで飲み会があった。やはりみんな生きている。働いてもいる。チェーンの居酒屋の狂騒の中にいながらそのことだけを確認している。

 思えば遠くまで来たもんだ、いや特に何かを思いながら生活しているわけでもないが。高校を卒業して随分経つ。みんな変わるし、みんな遠くまで行っていることだろう。

 さて俺が来た遠いところとは? あまり変わっていないような気もするが、高校を卒業したときと比べれば今こういう精神状態でこういうブログを書いているということはかなり驚くべきことなんだろう。

 幼い頃から体力的な問題で長距離走が苦手であったが最近の俺の生活はもう堕落の長距離走を校庭千周くらいの距離で走り続けている。堕落への道はプレイステーションで舗装されています。

 なにかの手から逃れようとして生きてきたような気もする。一体何に? 大人になるにあたって果たすべき責任とか、将来とか、あるいは過去とか、そういった諸々が俺の人生の価値を正確に測るために調和を育むためにコントロールしに来ている──ような気がする。

 みんな働いていて、税金とか年金とかを払って、つらそうな仕事をこなしている。俺はそういった物事からずっと逃げ続けている。逃げることを自責するような心はもう無くなった。前から書いてきたように、流されるだけ、流れて生きていくだけ。でも、俺を流れに連れ去ってくれるような波は一体どこにあるのだろう?

 二日目の飲み会のときに席を離れて喫煙ブースで一人でタバコを吸っていると、同年代らしい女性二人が入ってきた。ま~肌の露出のが多くて俺はびっくりしたね。あんたらいくら夏でもその格好だと風邪引きますよと思ったが、もうそんなんは俺の親が抱えている借金よりも大きなお世話なんで黙っていたら、一人の女性がタバコをすべてブースの床に落とした。不運なことにブースの床はなぜか水で濡れているところがあって、彼女のタバコはほとんど駄目になってしまった。

 彼女たちは必死になって生き残っているタバコを一つずつ拾い上げていた(俺も手伝おうとしたけど、喫煙ブース自体があまりにも狭くて体を屈めることがかなり難しかった)。

「お兄さん、すみません」

「ああ、いや……」

 ああなんと哀れな無職。せっかくの会話チャンスだったのに……。しかし俺の会話チャンスよりも重要なことに俺は気付いた。居酒屋という空間を俺は好きになりつつあった。そこにいる人達の何人かは、何らかのコントロールから逃れて生きている気がするからだった。別に彼女達がそうであるというわけでもないが、なんの根拠もなく、直観としてそう思っただけだった。でも羽生善治だって「直観の九割は正しい」って言ってるしな。

 しかし世の中にはそういったものから逃げるような人間で構成されているわけではない。制御から逃れようとする人間もあれば、制御しようと目論む人間もいる。いや、厳密に言うと、制御という機構に憧れる人間が。

 七月五日に東京都知事選挙があった。その結果について思うことは何もない。そもそも俺は野球を観るのに忙しい。

 問題はその結果が出てから、俺のツイッターのタイムラインにちらちらと見え隠れするコントロールという機構に憧れる人たちのことだった。選挙や政治といったものが多分にそういう要素を含むだろうから仕方ないとはいえ、やれ戦い方がどうだとか、やれ教育がどうだとか、あんたら、思い上がりも甚だしいところちゃいますの、と言いたくもなる。

 まあ俺もそういう憧れを抱いたことはあるけど、もうそんなんからは縁を切ったつもりだ。馬鹿げている。

 俺は今までその憧れに対する忌避感を、エリートたちに対する俺のやっかみなんだ、と思って処理してきた。けど、もう今はわかる。これは単なるやっかみではない。俺の人生の生き方から生まれ出た誇りを持ったやっかみなのである。

 喫煙ブースから席に戻り、友人たちと会話しながら、ふと周りの人々を見回してみた。そして店から出て、公園で噴水を眺めているときにも人々を見た。ベッカムのユニホームを着ながらスケートボードの練習をしている兄ちゃんの姿を見た。二軒目に入ったときにも、その後カラオケに行ってフリータイム時間が終わって、雨に包まれている午前五時の道を駅に向かって駆けていく人々の姿を見た。

 高校を卒業してから俺の人生のうちの五年間は人々を見ていることに費やしていたような気がする。もう波は生まれていた。コントロールとは無縁のところから広がり続けている。人類が誕生してから、多分ずっとそうだ。

 もう波は俺をどこか遠いところに追いやっていた。そしてまた、俺を別の遠いところへ追いやっていくだろう。それでいい。出来る限り遠くへ。きっとまた、漂着しているところを見て驚くはずだ。