風が吹けば整形外科医が儲かる

 月に一度は更新するぞというこのブログももう二ヶ月近く更新していないが、一応は日記という体裁でやっているのだからこの二ヶ月間の記憶が俺に存在しないのかというとそういうことではなく、むしろ一生涯消えることのないだろう記憶の苦しみによってなかなかブログの記事が書けずにいたのであった。

 しかし、秋ですね。十月に入るとグッと寒くなり、人々の装いも変わり、我が家も羽毛布団なんか出したり、我が愛すべき東京23区東部の下町地域ではこのような会話が時候の挨拶として繰り返されることになる。

「おばあちゃん、寒いですねえ」

「へえ?」

「おばあちゃん、寒いですねえ!」

「ええ、朝はもう食べましたよ」

「おばあちゃん! 寒いですねえ!」

「へえ、おかげさまで元気でやっとります」

 道端で繰り広げられるこのような微笑ましい会話を寝転がりながら聞いていると、そもそも時間感覚がどうでもよくなり、お前は相変わらずそうやって部屋の中で寝転がりながら人々の暮らしを眺め続けて人生のイベントに能動的に参加することは一度もないよな、ともうひとりの俺が俺に痛烈な人格批判をぶちかましてくるが、俺が言いたいことはそういうことではなくて、純粋に足が痛くて動けないから布団の上にいるだけである。

 このとき、体重100キログラムをゆうに超える俺の全体重を支えてきた足腰、関節がついに限界を叫び始めているのだな、と解釈していた。今考えるとあまりに楽観的な解釈である。基本的に俺は人生を楽観しながら乗り越えてきた。いや、今は無職だから乗り越えるどころか座礁している最中ですが。

 歩くどころか立ち上がるのも精一杯なので、家の中は基本的に赤ちゃんのようにハイハイで移動していた。赤ちゃんみたいな生活を送ってきた俺に対する神が与えし罰でしょうか? 母親が異常に俺のことを見下している気がする。この狭い家の中のトイレにたどり着くまでに十分以上も時間をかけないといけないのだ。

 その間、暗闇の中で

「フーッ……フーッ……」

 と苦悶に満ち溢れた声をあげながら大男が一人狭い部屋の中を歩いているのかもわからないスピードで移動している。

 改めて武道で鍛えた精神力が俺にあってよかったと思うね。武道で鍛えたのではなく、ニコニコ動画に上がっていたアニメ版「刃牙」の愚地独歩の勇姿に感銘を受けていただけだが。

 これまでも肉体を痛めることはあったが、ここまでの痛みは異常なので、整形外科に行くことにした。そもそも歩けないのだから整形外科にも行けないのだが、そこは色々な人との協力があって、なんとか辿り着くことができた。端的に言うとタクシー乗っただけです。人の縁(えにし)やね。

 しかし、明らかにおかしい痛みを抱えているのに医者にも行けない日々は地獄だった。痛みを解決することができないので普段かかっている心療内科も受診できず、久々に睡眠薬のストックが底をついた。ODしてないのに……。もう俺は誰も傷つけないと決めたのに……。

 俺の決意をあざ笑うかのように襲いかかる脚部の痛みと異常な腫れ! 骨折を覚悟していた俺は、整形外科の待合室の中でここまでの痛みだと今年いっぱいは痛みを忘れて生活することなどできないのだろう、そしてここまでの苦痛はきっと俺の人生観を変えてしまうだろうと覚悟した。

「田中さん」

「はい」

 いま俺は医者の前でパンパンに腫れ上がった左足をさらけ出している。横に控える看護婦達のいたたまれなさそうな視線。そういえば足の爪とか切っておいたほうが良かったかな? いま、患部のエコー画像のようなものを見せられている。日が西に沈み始めてブラインドの隙間から差し込んできている。そういえば、待合室ではミヤネ屋が流れていたっけ。痛みのあまり時間を忘れていた俺はここでようやく今が午後なんだと気づく。

「ここに空洞ありますよね?」

「はい」

「これ、水が溜まっているんです」

「えっ?」

 水が溜まっているってどういうことだ? ダムじゃあるまいし。プロジェクトX的なアレで実は重症だということを俺に伝えたいのか? 周りの看護婦たちが下を向く。医者の表情が逆光の中に隠れて見えない。

「わかりやすく言うと、痛風なんですよ」

「え?」

「お気持はわかります。でも、痛風なんです」

 俺の人生観、変わったね。形而上的な意味じゃなくて、純粋にこれからは健康的な生活を心がけなきゃいけないって意味で。その後溜まっていた水を抜いてもらったら一気に痛みが抜けていった。俺は泣きそうになった。これまでの俺の苦しみの愚かさと、わずか二ヶ月ほどで終わると思っていた俺のこれからの罰のあまりにも大きく遠い彼方を見ようとして泣いたね。涙出てたと思う。

 普段から酒を嗜まないのに俺が痛風にかかるのはおかしいだろ。じゃあ年がら年中酒飲んでる俺のフォロワーとかはどうなんだ。どうして俺だけ……。俺、この一杯でもうコーラ飲めなくなっちゃうの? CCレモンは? ファンタグレープは? マクドナルド、もう食えないの? おじいちゃん、もう会えないの? 友よさらば。神よ、なぜ俺だけが痛風なんかに……。エリ・エリ・レマ・痛風だよ。

 足の痛みはとれても心の痛みは消えることはない。人生において大事なことを俺は俺の不摂生な生活の壮絶なしっぺ返しで学んだ。みんな。自分の尿酸値だけは裏切らずに生きていこう。野菜を食べよう。酒は程々にしよう。炭酸ジュースは砂糖がふんだんに使われているからあまり飲まないようにしよう。そして運動をして、健康的に生きようね。

 だけどこうして天に向かって反省文を書いている今ここでもわずかに足に残った痛みが消えない。医者は痛風をかばって生活していたので別のところを痛めたのだろうと言った。俺は違うと思うね。

 人は四肢を失ってもその失った部位にあるはずもない痛みを感じるという。これを幻肢痛という。俺は今幻肢痛を感じ続けている。一体何を失ったのか? あのジャンクな日々をだよ。

 社会が俺を追い詰めていくが、俺は負けることはない。地獄の中を生き抜き、必ずもう一度マクドナルドのポテトを食うのだ。待っていろよ尿酸値、人間の本当の恐ろしさをお前に教えてやるぜ。