引きこもりに自粛なんて関係ね〜

 世間が新型コロナウイルスで盛り上がっている中を呆けて過ごしていたらいつの間にか3月が終わっていて、もうすっかり春めいて年度は変わって俺の中学や高校の同級生のほとんどが大学に進学し、そしてめいめいの就職活動の結果採用された会社への勤務を始めていた。

 参ったね、俺が今こうして部屋の中で天井やノートパソコンの画面やプレイステーション用と化したモニターを眺めている間に同級生が大学へと通っていることはなんとか許容できたが、これがもうその大半が働いていると思うとなかなか精神的にクるな。どうやらみんな一日で労働に飽き飽きとしているので、さっさと辞めてくれることを祈るしかない。

 しかし辞める/辞めないの選択肢があるうちはまだマシで、母親の勤めている会社などは今回の新型コロナウイルス禍で売上が大幅に落ち込んだようで、冗談抜きで倒産もあり得るようだ。これも本当に困る話で、無職やっている以上親が無職になってしまうと俺が働くか路頭に迷うか一家心中するかというどれを選んでも本当にキツい未来しかない。というか俺は普通に母親のコネを最大限に利用して母親の会社に紛れ込む予定だったので困る。

 新型コロナウイルスの猛威は有り難いことにすべてのテレビ局が毎日伝えてくれているので、テレビっ子の俺はもうほとんど飽き飽きしてきていて、自粛ムードも何も一日中物忌に勤しんでいるようなこの男には全く何も関係ない……というわけでもないようだ。両親の仕事の関係上自分も十分に感染の可能性がある。まあ死ななきゃいいのさ。

 死ななきゃいいのさ、という態度を取るようになったのはつい最近のことで、まあ昔の俺は死にたがりの困ったメンヘラ大男ってこともあったのだが、もう人生そういうこともあるのさ、という流されるままに生きたほうが楽だと気づいたからだった。こういうの、英語でなんて言うんだっけ? まあ流されて生きるっても部屋の中にずっといるから流されようもなく、むしろ人々が流れてゆく姿を布団の中で寝転がりながら見ているという状態に近いような気もするが。

 言うべきことも何もなく、書くべきこともないし、思うこともなくなった今の俺のことを昔の俺が見たらなんて思うのだろうか? そこに「楽になれてよかったね」というようなポジティブな評価がないのだろうということはわかる。多少は平凡な人生とは言い難いし、家族も含めて平凡とは少しズレた人々に囲まれていながらも、ある意味で平凡な、自然体なままでいるというのはなかなか凄いことなのさ、とほとんど自分を慰めているようなことを思いながら、深夜にインスタントラーメンを啜っている。

 しかし日常は続いていく。当たり前のように朝は来るし、俺は眠るし、人々は起きる。俺の生活はあんまり代わり映えしないけど、俺を取り巻く人々や俺が住むマンションの前にある工場で働いている人々の生活は常日頃から変化を続けていく。日付が変わり続けるとやがて俺の部屋の壁にかけてあるカレンダーはめくれるし、そしてやがて新しいカレンダーへと姿を変える。"マンネリ"を超えて永久に続くと思われた長期政権も、V9どころかV10、V11と優勝し続ける読売ジャイアンツも、このままブラジルのサンパウロあたりまで繋がっていそうな新御茶ノ水駅エスカレーターも、流行が終わらぬ疫病も、ビルの屋上に留まり続けるカラスも、そして無職で居続ける俺も、きっと存在しないんだろう。

 ベーブ・ルースみたいな誰かがが世界に向けて打ち込んだホームラン級のニュースを部屋の中から眺めながら、一日が終わる。