木之本桜の彼氏になった。

 木之本桜の声が聴こえる。耳を通じて聴こえるというわけじゃなく、俺の脳髄に直接語りかけてきている。

 俺は木之本桜の彼氏になった。俺は別に木之本桜の彼氏になりたかったわけではない。10歳ほど年下の彼女、しかも小学生と来たらいくらなんでも社会的に許されないことはわかっている。だけど、俺が部屋の中でぼーっとしていたら、木之本桜が俺の部屋の窓に小石をぶつけてきて、それで、会って話した。

「わたし、あなたのこと……好きです」

 喫茶店の中だった。なけなしの金で駅前のルノアールに入った。ドトールとかスタバとかに入ってお金がない人というレッテルを小学生に貼られるのは嫌だった。俺のことを好いてくれる人の前ではいい格好がしたかった。俺は700円くらいするコーラを飲んでいた。

「本当に俺でいいの? 多分、後悔するよ」

 女に告白されるのは初めてだったから、いくら相手が小学生でも俺は嬉しかった。でも、だからこそ未来ある小学生と俺は付き合っていけないと思った。俺は20歳の無職だし、将来真面目に生きていけるプランもなかった。

「後悔なんてしません! ……その、いっぱい悩んだけど、だけど、わたしの一番はあなたなんです!」

「ありがとう。気持ちは嬉しいよ」

 気持ちが嬉しいのは本当のことだった。小学生の女の子が真剣に悩んで、俺みたいな男のことを彼氏に選んでくれたから。木之本桜がカフェオレを全部飲み干した。学校指定のコートを隣の椅子の背もたれに掛けている。両手をぎゅっと握って、空になったコーヒーカップを見つめた後、俺の顔を覗き見て、俺と視線がぶつかって、またコーヒーカップに視線を戻している。その動きの度に茶色が美しい髪の毛を束ねるゴム紐の飾り付けが互いにぶつかりあってカチカチと音を鳴らしている。

「じゃ、じゃあ!」

 沈黙を打ち破ったのは木之本桜だった。俺は無邪気そうに笑顔を浮かべる木之本桜の顔を見ていることができなくなって、コーラが注いてであるグラスに刺さっている輪切りになったレモンを見た。

「タバコ、吸ってもいい?」

「は、はい!」

 俺はポケットからクシャクシャになったハイライトの箱を取り出して、その中から比較的折れ曲がっていないマシな一本を選んで火を点けた。木之本桜に吹きかけないように、天井に向かって煙を吹き出した。

 その後、また俺と木之本桜は黙った。氷が溶けてカランと鳴った。周りの人の動きが止まっているように見える。時計の針が進むのが妙に遅く感じる。タバコが燃えていないような気がする。さっきから、ずっと木之本桜は瞬きをしていない。

「ありがとう、さくらちゃんの気持ちは嬉しいけど」

 一言ずつ区切るように発音した。

「でも、ダメだ」

 言い終わったら、喫茶店の内装がぐちゃぐちゃの色になっていった。最初に机が歪んだ。次にその渦に椅子が巻き込まれていった。少なからずいた他の客の顔が大きく伸びて縮んで最後は消えてなくなった。喫茶店ごと巨大な渦になった後、あたりに飛び散っていった。

 俺達は草原にいた。何故か俺たちが座っている椅子と、テーブルだけは無事のままだった。

「な、なんでですか!?」

 木之本桜が大きな瞳を全力で開いて俺を睨んできた。瞳が少しだけ潤んでいるような気がする。ふと横の座席に掛けてあったコートを見たら、ジューと音を出しながら蒸発している最中だった。気づけば俺が加えていたタバコが、俺の口からなくなっている。

「お前は、木之本桜じゃない」

 今度は俺が睨み返す番だった。恋した女を睨むのは苦しかった。でも、この女は木之本桜じゃない。少なくとも、俺が好きになった木之本桜じゃない。

「な、何を」

木之本桜は俺なんかを好きにならないからだよ」

「違う! 私は本当に好きで」

「もういいんだ。俺は木之本桜のことは好きだよ。でも、お前じゃないんだよ。無理をしなくていい」

「だって、だって私は本当に木之本桜で……」

木之本桜はさ、俺とは会えないんだよ。俺と木之本桜は住む世界が違うから」

 そんなことを言ったような気がする。もう木之本桜だった女の子は見えなくなるくらいに体が歪んで、縮んでいた。テーブルが割れた。椅子が宙へ浮かんでいる。地割れみたいなヒビが、俺の視界を埋め尽くそうとしている。桜だった女の子はついに見えなくなった。俺の世界も終わりだ。

「でも、私は本当にあなたのことが──」

 それがその女の子の最後の言葉だった。その言葉が俺の脳にこびりついて離れない。

 でもそれで良かったと思う。

 夢から覚めた。日光がカーテンの隙間から漏れ出て、部屋を照らして、カードキャプターさくらを映し続けた俺の部屋のテレビに向かっている。

 カーテンを開けて、窓も開けた。俺に向かって小石を投げ続ける木之本桜の姿はそこになかった。だけど、その少女と同じくらいの年齢の少女が、キャップを被ってランドセルを背負って走っている。

 空を見上げた。

 この世界のどこかで、木之本桜が空をマラソンしているのかもしれない。