碇シンジと俺

 夏は異常に人のノスタルジックな部分を喚起させる季節で、俺も自分の中にあるノスタルジーに還るところが結構ある。普通の人ならそれはおそらくカンカン照りのビーチに寄せては返す波だったり、背丈ほどもある草むらの中で咲いているひまわりだったり、ひぐらしの鳴き声が響く夕焼けを眺めながら感じた一抹の寂寥感だったりしたかもしれない。

 俺の場合はエヴァンゲリオンであって、とりわけ夏エヴァとか旧劇とかEOEとか言われる「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 air/まごころを、君に」だったわけだ。

 先ず俺とエヴァの出会いから書いておこう。俺は昔Twitter2ちゃんねるに触れる前まではネットでチャットをよくやっていた。ある日、碇シンジというハンドルネームに出会った。今考えれば相当痛いハンドルネームなわけで、別のチャットグループの人間が「お、エヴァだね」と反応していたが、あれももしかしたら嘲笑だったのだろうか。だが俺は先ず碇シンジというハンドルネームを見てなぜエヴァという謎の単語と連想するのか意味不明で、思わずその場で尋ねてしまった。当時俺は中1だったと思うけど、そのときにいろいろと教えられた。エヴァンゲリオンというアニメがあること、それはめちゃくちゃ面白くて、俺が生まれる前に随分話題になったこと。俺が好きだと言っていたハルヒ長門綾波をモデルにしてること(本当か?)、そして碇シンジというのはエヴァの主人公であること。

 その後、急いでインターネットでエヴァを検索した。おおっぴらに話せることではないが、当時はアニメ違法視聴全盛期の時代で、ハルヒもそうやって見た。だからエヴァの違法アップロード動画を見つけるのはあまりにも容易だった。

 思えば、中1のときは俺にパソコンというものが与えられて(今思えば動いていることが奇跡という代物の化石だった)、世界がぐっと広がった。面白い小説がいっぱいあることをそこで知った。アニメもそこで知った。有栖川有栖という作家に熱中していた。新本格ミステリを読んで、外国のSFやラノベも読んでいたりしていた。あの時の俺は、今の俺にはない活気があった。

 話が逸れた。

 エヴァの第一話を見た。衝撃だった。わけの分からん造形してるロボットとか可愛い登場人物とか、そして碇シンジの存在そのものが。思わず一気に26話をすべて見た。アスカの登場に心を躍らせて、アスカと共同生活までするシンジを憎く思った。ゲンドウとシンジの関係をそのまま俺の親父に当てはめて勝手に共感していた。トウジの結末には心を痛めたし、壊れていくアスカを見るのも辛かった。シンジが抱く無力感に涙を流した。カヲルの登場と去り際は脳裏に焼き付いて、最後の二話はただただ呆然としていた。キャラクターの造形にも心を惹かれたが、エヴァという作品の奥深さにも心を惹かれた。中学一年生の幼すぎる頭と心に、エヴァはダイレクトに響いてきた。暑い夏だった。窓の外の電柱にセミがとまってけたたましく鳴いていた。遊びに行くような友達もいなかった俺は、むしろそれを好都合と思った。外に遊びに出かけているクラスメートはこの作品を知らないんだ、と下らない優越感を覚えていた。

 すぐにその興奮をチャットグループに書き込んだ。大人たちは俺の興奮を優しく受け止めて、更に劇場版があることを教えた。曰く、旧劇と新劇という二種類があること。旧劇はTVシリーズの続きが描かれていること、新劇はTVシリーズを一から作り直したものであること。ただし、そのチャットグループの人たちは概して「旧劇は子供には勧められない」と語っていた。人並みに子供扱いされることが嫌いで、そのくせ背伸びしたがりなところがあった俺は、すぐに旧劇を見始めた。

 衝撃だった。アスカでオナニーするシンジ(俺がオナニーを覚えたのはその一年後の夏だった)、殺されていくNERV職員、弱音を吐き続けるシンジとそれを叱り飛ばすミサトさん、復活するアスカと超絶作画で描かれる戦闘シーン、そして量産型に陵辱されるアスカと弐号機、シンジの精神世界の描写と現実で起きていることの描写にはついていけなかったし、唐突に現れる三次元の女の映像とミサトのセックス、そして何が起きているのか一切理解できない映像と、「気持ち悪い」。全部の映像が衝撃的で、俺は正直落ち込んでしまった。三日くらい人と話す気力が出なかった。だが、この作品のことはなぜか好きになった。

 それ以来、俺は毎年夏を迎えると、旧劇を見返すことにしている。

 去年から、俺は旧劇を見ると涙を浮かべるようになった。去年の夏、友人の家でいつものように旧劇の再生を始めた。深夜だった。隣りにいた友人はもう眠っていたが、俺は他の友人達と旧劇を見続けた。そして、ミサトさんがシンジにかける言葉の一つ一つに深く勇気づけられて、最後にシンジが現実と向き直す決意を固めるシーンのときは涙で画面が見えなくなっているほどだった。友人はちょっと引いていた。別の友人は「お前これで泣けるならうつ病じゃないだろ」と揶揄した。俺の中の旧劇が、ちょっとだけポジティブな映画、という枠に収まった。

 今年も見返すことになった。だけど、今年の俺は旧劇を素直に飲み込むことができなくなっていた。シンジの状況とモノローグには痛いほど共感できているのに、なぜ?

 シンジがもうエヴァには乗らないと宣言し、アスカにひどいことをしたし、カヲル君も殺したことを悔いているシーンで俺はもう号泣している。「しっかり生きて、そこから死になさい」というセリフは依然として迫力を保っている。誰かを傷つけてまで誰かを守る資格は自分にはない、自分は何も分かっていなかったし、そんな自分には何も出来ないと絶叫するシンジの心が痛いほどよくわかった。人にひどいことしか出来ないならしないほうがいい、もっともなことだ。

 だが、俺はシンジがエヴァにもう一度乗る動機が一切理解出来なかった。シンジの言うとおり、ミサトは他人のはずで、俺も他人だ。だからシンジのことなんて何も理解出来ていないはずだ。そしてシンジは他人のことを理解できていなかったのにアクションを起こしてきた自分に嫌悪感を抱いていたはずだ。だが、ミサトさんは俺が抱いている疑問をたった一言、他人だからなんだというのだと言って棄却してしまう。

 結局シンジ君はミサトさんに説得されたのだろうか? 俺はそうではないと思う。ミサトさんに押し切られたからシンジはエヴァに乗ったのではないか。思えば一話もそうだった。シンジは常に他者からの評価を気にしながら生きてきた。そして他者からの評価に乗ってエヴァに乗った。そして旧劇でミサトさんはシンジに決定的なことを言う。エヴァに乗らなければシンジのことを許さないと怒鳴る。シンジはミサトさんに許されたいからエヴァに乗ったのではないか?

 こう考えると、俺が旧劇に対して抱いた違和感の理由も上手く説明することが出来るきがする。シンジは、他人と向き合ってみようと思っていたわけではない、ただなんとなく、シンジは他人からの評価を気にしてエヴァに乗り、アスカを救おうとしたのかもしれない。

 しかし旧劇は明確にシンジが何かから訣別するシーンがある。去年までの俺は、それは内向的な碇シンジそのものからの訣別だと思っていた。でも、今の俺には、シンジは他者からの評価を気にする自分から訣別したかのように思える。アスカからの評価もミサトさんからの評価も、ゲンドウからの評価も、それを気にする自分からの解放を期したように見える。結局それは、自分への評価というレイヤーを通してしか理解できない他人だった。それは一番わかり易いように見えて、実は他人のことを理解しようとしていない態度だと、シンジは自分で気付いた。だから、シンジは他人とわかり合うために、祈りのような態度で他人と向き合うことを決める。

 俺にはこういう風に見える。そして、こういう風に見ると、俺の中の碇シンジという人間像がぐっとクリアになるような気がする。

 シンジは最後、むき出しになった他者、つまりアスカの首を締めようとする。他人とわかり合おうとする態度を決めたシンジとは矛盾する行動のように思えるけど、俺はそれでいいと思う。アスカは怖い。他人は怖い。だから殺してしまいたい。できれば誰もいない世界にいたい。だが、その世界もまた怖い。だから、アスカのことは殺せない。結局、首を締めて殺すことを諦めるシンジが、俺は好きだ。他人と向き合おうとして、それでもそのことに躊躇するシンジが好きだ。

 だから、俺はこの映画が好きだ。